【連載】CC JAPAN REMIX SPECIAL / ECCHU-OWARA-BUSHI CROSS CC / VOL.1

なぜ私たちは、富山市八尾町へ?

今回クリエイティブ・コモンズ・ジャパンでは、富山県富山市八尾町に伝わる民謡「越中おわら節」の演奏を録音して、それを元に2組のアーティストによるリミックスを制作、その両方にクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)を付けて公表するという試みを行いました。
この企画の背景には、実践を通じてCCライセンスの<可能性>と<限界>を検証するとともに、デジタルと親和性の薄い、地域・伝統文化との良い関係性の持ち方を模索したいとの思いがありました。

もっとライトに表現をすれば、日本の伝統文化は近くて遠い存在であり、リミックス等にそこまで多用されてはいないと感じていたので、日本の伝統文化とフラットに接して、模索しながらリミックスを行うことで、新鮮な音楽や刺激的な創作の連鎖が起きるのではないか、と思ったことが一番大きなモチベーションだったりします。

このような思いを抱いて調べていくうちに、富山が民謡の宝庫であること、またその中でも「越中おわら節」は屈指の名曲であることを知りました。実際に聞いてみると、日本の民謡には珍しく胡弓が使われていて耳を奪われましたし、また哀愁を帯びた響きが素晴らしく、とても心惹かれるものがありました。

何度か富山に足を運ぶうち、幸運にもご縁があり、今回の企画の実現に至ることができました。

演奏を録音させていただいたのは「越中八尾おわら道場」の皆様、リミックスを制作していただいたのはVIDEOTAPEMUSIC, colorful house bandの2組です。完成した音源をお楽しみいただきながら、以下読んでいただけるととても嬉しいです!

今回、企画の一環として「越中八尾おわら道場」の代表の庵進さんと、リミックスを制作していただいた2組の方々にインタビューを行っています。

まずは、第一回目として「越中八尾おわら道場」の代表の庵進さんのインタビューをお届けいたします。

「越中八尾おわら道場」は「越中おわら節」の研修と伝承・普及を目的とし、1985年に設立された団体です。
越中八尾おわら道場ホームページ

「越中おわら節」は富山市八尾町で毎年9月の1,2,3日に催される「おわら風の盆」というお祭りで演奏されています。「おわら風の盆」では十一の町ごとに編成される越中八尾おわら保存会の各支部が、それぞれの町を演奏と踊りを披露しながら練り歩く町流しが名物となっています。しかし、それとは別に、町の中心にある名刹、聞名寺のステージで演奏している団体があります。それが、今回演奏を録音させていただいた「越中八尾おわら道場」という団体です。こちらの団体は保存会とは違い、各町ごとの編成ではなく、居住地、年齢、性別を問わず誰でも随時入会でき、地元の人であろうと県外の人であろうと、民謡(唄、楽器、踊りほか)の経験が深かろうが浅かろうが、また老若男女を問わず門戸を開き、ただ技量の進歩上達を基準に審査を行い、段位を取得してもらう、という趣旨のもと活動されています。
富山市八尾町での演奏の他に、他所でも演奏活動をされており、京都大原三千院や比叡山延暦寺、さらにはハワイやインド、ピラミッドの前まで(!)、かなりの世界規模で活動されている団体です。
今回、幸いにもご縁があり、演奏を録音させていただきましたが、リミックスに使わせていただくことやCCライセンスをつけて公表させていただくことも快諾していただきました。「越中八尾おわら道場」代表の庵進さんが、どのような経緯で、またどのような思いで団体を運営されているのか、今回の企画をどのように感じられたのか、色々とお話をお伺いしました。

第1回 越中八尾おわら道場 庵進さんインタビュー

2017年7月9日17:00  富山市八尾町今町善称庵にて収録
インタビュアー:森靖弘・吉田理穂(Creative Commons Japan)

おわらとの出会い

CCJP Iorisan Interview1

「越中八尾おわら道場」の代表の庵進さん

庵さんがおわらと出会ったころのお話をお伺いできますか。

僕はね、高山線の越中八尾駅ってあるんですね。そこの町内へ僕婿養子に行ったんですよ。元々は庵じゃないんです。26の時。駅のある町内。福島。それで行ったところの、まあ舅姑と言うのが、この町の狭いところから福島というところに新たに出たわけだったんです。
でちょうどそこの娘のところに行ったわけですけれども。だから、昭和46年正確には47年ぐらいから、おわらというのを見て。僕自身は、おわらのおの字も知らなかった。
たまたま町から出た庵という、そこの舅が町で歌っていたんです。この人がまた真面目いうか歌はうまいけれど、真面目一本で。とにかく町内へ出るのが嫌だと。歌は本当にうまかったんだけど、町内へ出るのがいやで。だからお前行けと言われて、僕は代わりに行ってなんとなくやりはじめたんです。

(注:現在は富山市の一部となっている八尾町。八尾町の中にも東新町、西新町、諏訪町、上新町、鏡町、東町、西町、今町、下新町、天満町といった旧町と呼ばれる地域と、福島、またそれ以外の地域もある。「おわら風の盆」は旧町と福島の各町内で催されている。インタビュー中に出てくる「町」は旧町を示している場合が多い。)

庵さんのご実家はまた別の場所ですか?

すぐそこだけど、ちょっと車でここから5,6分で行けますよ。今だと八尾町。今では八尾はもう富山市になってしまったから。

今だと、おわらって言うといろんな人が知ってて、例えば僕とかでも東京でも名前聞いたりする感じですけど、当時はいかがでしたか?

全然。全く。かすりも。おわらのおの字も。全くかすりもしなかった。まさか僕そんなこと携わるとは夢にも思ってませんでした。

CCJP Iorisan Interview2

八尾町の地図にマークを入れて説明する庵さん

”おわら”以前

で、もともとはお祭り好きというか、二十歳ぐらいの時に、あの、自動車の整備士になろうと思って、岐阜県の大垣に整備士の学校があったんですよ。でそこに行って、そこからアルバイトしたりして、まあ大型の免許を取ったんです。22の時かな。それからいきなりダンプに乗ってね。それで途中から静岡県に天竜川があって。あっこの磐田の方に、えー名神高速道路と言うのは東京オリンピック、昭和39年に合わせて作った日本最初の道路なんです。ところが東名高速道路は、昭和45年の万博に合わせて作った道路なんです。
昭和43,4年中に、23,4、2,3の時かな。磐田の方で、東名高速道路の地盛りのダンプに乗っていたんですよ。考えられないぐらい無茶苦茶な仕事をしていた。当時はダンプと重機の運転手だけの簡単なバラックが、飯場かな、そこに何ヶ月おったかな。そんな事で、当時はね今で言うとお金にすると現金で手取り60万ぐらいもらっていた。22か3で、1週間から10日で綺麗に使うんです。

もう金配って歩く様な。ははは。本当に面白かった。だから今の若い人は可哀想だ。あの時はちょうど高度経済、オリンピックの後の高度経済成長。万博に向かってとにかく大型の運転手が必要だったんです。もう免許証を持っていけばその日からそこで使ってもらえるね。好きなことをしてきた。まそういう事が変な話、肥やしになってるよ。遊んだり、無茶苦茶なことしてきたからね。はははは。お金配って歩いた。
まあまた変な話、好きなことをしていて自分は行方不明ですよ、実家からすれば。ホームシックのホの字も知らない。そうやって歩いてそれで最後に、いま何かな、名古屋の港区になっているかな、どこかそこの土建屋さんに最後いたんですけれども。

で、そこの親方の嫁さんの妹と一緒になってくれんかいなと。いやー、これじゃあ僕はここに一生いないといけない、ダメだということになって、家にいきなり電話をかけた。迎えに来てくれ!って。
兄貴がちょうど造園をやって、高度経済の昭和40年代で、造園というのは富山県で流行ったんですよ。だからちょうど人手不足で。ずっと去年まで兄貴の作った会社でやっていたんですよ。そうしているうちにちょっと縁談があって、養子に入ったわけだけれども。

胡弓の名人、若林久義氏との出会い

CCJP Iorisan Interview 3

石畳の残る八尾の町並み

そんな時にやっぱり僕は、きちっとしたお師匠さんはいないんですけれども、1週間に4日くらい入った家があるんですよ。その方は明治生まれの人です。最後の名人ですね。三味線と胡弓の名人。だから生き字引です。そこへ行ったけれども八尾の町の人は、いっぺんも誰も来なかった。
だから僕の知っとる話を知らない人は山ほどおるわけ。だから、ちょうどその年代で途切れてしまって。八尾の町の人が弾けない三味線を、僕は弾けるんです。
ホームページにもあるけれども、若林久義という胡弓の名人。胡弓の名人と言われていたけど、僕は三味線の名人だと思う。でもね、明治生まれの人だから、全く教えてくれません。聞いたら教えてくれるけれども、だから昔は技術を盗むしかないんです。
直接教えてもらったというのそんなには身につかない。中には、あの先生は何も教えてくれない、この先生はよく教えてくれると言うけれども、それは違うんだと。お前さんの観察力が足らないと。僕はそう思う。

若林さんところに行かれていたのは庵さん40歳ぐらいですか?

30代から40代くらいだね。道場作ってからあの方も高齢になられたからあんまり行かなくなった。

おわら道場の立ち上げ

昭和60年だから、僕がちょうど40の時かな、民謡バブルでこの町へ、この風の盆に人が物凄い来るようになったんです。だんだんよそから本物志向で習わしてくれと言う人が結構来るようになった。だんだんいろんなご縁ができると、そうすると、明治生まれの人たちもこんなことやっとったんじゃ、保存会のことだけじゃダメだなと。全部やりやすいようにやってしまう、みんな楽な方向になってしまって。ましてや過疎になってきたでしょ。やりやすいというのはダメだと。

最初は町の方が何人か集まっておわら道場を立ち上げられたのですか?

そうそう町の人。で、福島の人が何人かな。発起人の中に、半分ぐらいいたんじゃないかな。結局やり手ばっかりがおったから。だから昭和60年4月に、今日からやりましょう、ではなくて、やっぱりその3年も4年も前からやろうやろうと言って、下準備があったんです。発起人だってね、いきなりこういう集まったもんだけど、そうじゃないんだよ。あの人も来んかなと、やっぱりそういう時間は3,4年もっとあったかもしれないですね。

じゃあその頃、庵さんがちょうど若林さんところに行かれていてっていう時ですね、その後に道場が立ち上がったんですね。

まあそんなことで始まって、途中で、その町内の行事とこっちの行事とできなくなったんです。体が二つないから。それでもう道場だけにしたと。あの掛け持ちできなくなって。あの道場はやっぱり県外から集まってくるし。まあ別に町内を捨てたわけではないけれども、何となくこうなって。

おわら道場さんは最初からどこからでも受け入れようという感じだったんですか?

まったくそうそうそう。どなたでも性別国籍問わず。いわゆる来る人拒まず去る人追わずです。ずっとそれでやってます。

聞名寺で奉納演奏をするように

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聞名寺でのおわらの様子 
(提供:越中八尾おわら道場)

道場は昭和60年から立ち上がって、ここで踊るようになったの平成6年からなんです。きっかけはいろいろあったんですが、風の盆の碑という石碑があるんですよ。僕らはあの平成4年に若林久義さんが亡くなって、平成5年には、明治生まれでお囃子の名人だった天満町の中田国嗣さんが亡くなった。平成5年に僕ら浴衣デザインする言ったら一応肩書は相談役としていた、絵描きさんの笠原輝芳さんも亡くなって、3人亡くなったんですよ。半年ほどで。亡くなったいろんな経緯があって、とにかく風の盆の碑を作ろうということになって、新潟県の柏崎まで、僕はたまたま造園屋をやってて、石碑になっとる石をただもらいに行ったんです。僕はダンプの運転をして。

立ち上げに関わられた方が亡くなられて、それで碑を聞名寺さんとこに立てて、というのがきっかけで聞名寺さんでおわらをされるようになって…

あ、そうだもっと大事な話をしなければいけない。昭和60年にいきなり60名近く会員が入ったんです。で、当時民謡ブームだから。大阪の人も結構来たんです。で、そしたら結局宿持たずでしょ。当時はね町流しできたんですよ。楽に。自由にいろんな人が。

おわら道場さんのホームページ見てると最初は町流しをしていたって書いてありますね。

そうそう、最初は3日の町流しから始まったんですね。それが宿を持たずで、どうしようもないしさ。最初の会長の家寄って色々話をしていたけれども。浴衣もちゃんと揃えたと、だけど、宿がないとどうしようと。三味線のケースがあったり着替えの場所が必要だったりとか。
それなら、聞名寺さんがあると。接点はいろいろあったんだろうけれども。僕は植木屋しとったし、聞名寺、御前様だったら僕が頼みに行くわと言って。
いやちょっとこういうもんを立て、作って、こうこうこうこうしたいんだけど。その町外の人がほとんどで、着替えの場所がなければ三味線のケースを置く場所もないので、何とかその庫裏の一つ貸してもらえませんかねと言って、と言う話をして。この時代の発起人の、まあ年配者の人の名前を僕があげたら、みんな知っとると。でも、御前様は言うんです、僕はあんたに貸してあげるんだよと。
僕はその時はやったと思ったけど、今度は責任の重さにね。いやあ、あの時、御前様のあの言葉があって、未だにあの言葉で動かされているんだと思います。

最初は着替えなどの場所を貸してもらっていたんですね。

そういう不思議な出会いをもらって。だから植木屋としてずっと出入りしていたから知ってましたけど。それが、僕にすれば全ての始まりそこからかもしれない。聞名寺さんと付き合い、ほんとにいろんなことで可愛がってもらってやっているわけで。

そうなんですか、強い信頼関係と言うか。

まあ僕が言うのはおかしいけれども、そうしなかったらこんなことはできない。とんでもない話だね。

真面目な厳しい昇段試験

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左:越中八尾おわら道場の昇段試験の風景  
右:厳しい目で昇段審査を行っている審査員たち
(提供:越中八尾おわら道場)

おわら道場って言うのはこれがメインなんですよ。本当は。いわゆる技能審査会というのは硬い名前だけれども結局昇段試験ですよ。例えばあなた、楽器は何かやられる?

僕はギターを弾いたり。

そしたら三味線のところを見て、胡弓か三味線の。一番左から行くと、上から行くと太鼓が一番下で胡弓下から二番、三味線で左から上一番左に行くと初段、中段、上段、準師範とあるでしょう。そしてあの三味線の初段は何から始めるかとか、ほらだんだん課題が。

僕らを30年面倒を見ておられた竹内勉先生という方が、2年前に亡くなったんですが、その方が全国津々浦々、昔民謡を全部というか地元の民謡というか、あの人は NHKの毎週水曜日ラジオでだいぶ前になくなったんだけれど、民謡を紹介する番組、多分40年1人で1時間やられていた。単に民謡を紹介するのではなくて、本当に、例えば芸者さんであったり、地元の歌い手であったりその人の物語やら、その民謡にある物語、歌を紹介するんだけれど。だから歌自慢ではないんです。だからそういうのでものすごく良い番組だったんですよ。
その人がおっしゃったのは、プロアマ通じて、うちが一番真面目な厳しい昇段試験。わかる人が見たらね、びっくりすると思うよ。最短で準師範行った最短で三年、最短でですよ。

僕の記憶では、道場の帳面に載った人は千何百人居ると思う。でもね、喧嘩して辞めた人は僕の腹のなかでは一人もいない、ただ難しくて来なくなった人はいるけれども。準師範になった人の中に大阪から通っていた方もいたけど、それでもやめなかった。

だから民謡といっても、おわらの場合特別なものがあるんですね。結局辞める人と、まあおわらではなくても続ける人は結構いるんですよ。それはまあ絶えず挑戦してますけれど、なかなかそうはいかない。だから竹内先生がおっしゃったのは、プロアマ通じて一番厳しいというのは、なあなあではないということ。つまり、絶対に公開で出入り自由で、それは見た通りのことを評価するわけです。

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越中八尾おわら道場の技能審査会の審査要項

年齢層はどんな感じなんですか?

年齢層は結構、幅広いというか、もう高齢者です。若い男性がまずいないでしょう。それは趣味ならできるよ、ただ趣味と言うか没頭できるというのは、家庭持つと、仕事家庭大変でしょう。男は可哀想で50ぐらいで入ってくる人はよっぽどそのうまく切り盛りできる人か、まあ、昔は職人さんとか結構おったんですよ。
今はそういう時代じゃない、趣味もやらんないけんね。で、女性になると結婚したらまず来ないでしょう。子供出来たら。子供手を離れたらなかなか。じゃあ小学生入ってきたら、今小学生名古屋から来てる子いるんです。それからまあ、中学生も過去に何べんも来るけれど、中学生は今度は学校に行かないならん部活やら。

民謡のリミックスと継承

それであなたたちは、大まかにどんなことやっているの?

それでなんですけれどもちょっと見て頂きたいんですけれども、これは、あのクリエイティブコモンズという、これが僕たちのやっている団体なんですね。これ、あの著作権の関係なんですけれども、えーと、例えば演奏された物って演奏された人が権利を持っていて・・・

CCJP Iorisan Interview 6

庵さんにCCライセンスの概要を説明中

それはアマチュアでも関係ないんでしょ。

関係ないです。それは誰でもあるものでして。それであの細かく言うといろいろあって、作詞とか作曲とか演奏とかってあるんですが。

僕はこんな本来的に民謡て、そういうのはないと思うんですね。

作詞作曲はもう、誰かが作ったというより、受け継がれてきたものだから。

民謡はまあ家元がいてね

だけど演奏したことに関しては、それの権利というのがあるので。例えば僕が庵さんの演奏を勝手に録音させてもらって、それを例えば CD にして勝手に売りましたっていうとそれは当然ダメですよね。

僕はそれは何とも思わない。

本当ですか、でもそれは駄目っていうことになっていてですね…

法律上は。

ただ、庵さんが別に何も言わなければ実際には問題にならないことではあるんですが。
例えば庵さんが別にこれ、使われてもいいんじゃないって思ったときに、このマークを作ってまして。例えばこれだったらこれは名前は書いてください、名前は庵さんが演奏しましたよと書いて欲しいと。名前を書くなどいくつかの簡単なことだけ守ってもらったら、後はほとんど何しても構いませんよというやつで。そういうのを何種類か作っていて。
でこういうのを使ったら、例えばいろんな人にもっと聞いてもらえたりとか、それを基に、今回やらしていただいているように、これを基に新しい音楽を作ったりとかっていうのができて、広がっていくと豊かなんじゃないかっていう活動をしてます。こういう考えを広めるということです

いや結構あの昔、沼津でやったやつ。それなんか風の盆で、すごい売っている。別に何ともおもわないけど。沼津に信用金庫ってあって。あれは多分平成12年だったかな。まだバブルの時分ですよ。信用金庫と言えど、沼津は大きいところで、年金の口座を持ってる人が5000人くらいいると言ってた。信金が50周年何かの記念で節目に、年金の人達の感謝デーに1500人あまり入る、大きい会館で、おわらを見せたいって言う話が来てね。じゃあ分かりましたと言って。僕は1時間40なん分をしゃべりながら、僕も歌って、話したりしゃべったり三味線や踊りを紹介したりして。
そしたら一流の音響屋さんが、終わった時に、音響屋の社長が、いや今までも一回もなかったけれど、これからも絶対ないだろうと。何かというと誰も帰らなかった。入った人が一人も帰らないって言うのは過去にないでしょ。

それで、そのことをやったその時に、著作権の話があって。ちょっとこの町中を外れたところにある、特定郵便局、ここはなかなか由緒のある家柄、その人があるとき、おわらのグッズを売ったりなんかして。うちへ訪ねてきて、おわらのグッズで、やりたいんやけどと。うちは録られて恥ずかしいぐらいだけど、何も知らない。
そしたら追っかけが始まって、沼津行ったんです。沼津までグッズ持って行って、でもグッズはほとんど売れずに。当時は MDあるでしょう MDを機械の、そこの音響屋さんに頼んで。マイクから入ってきて放送する前の段階で、だから本当に綺麗なやつをマスターテープにして。
いやあ庵さん、あれで何か商品したいけど、って言われたから、あー別にいいよ。いや別にそんなもん。
そしたら未だに、音源はそのままで。映像はいろいろ変えたりね、どっか町内頼んで別の映像撮ったりして、彼どんどん商売している。最初はね、カセットテープで出して、その次が、ビデオで出して、今度は CDから DVD からも出して、それで映像変わって音源だけはそのまま使っている。いや別にだから何とも思わん。

録音させていただいた音源なんですけれども、サウンドクラウドという名前のサイトに載せさせていただきたいなと思っています。

CCJP Iorisan Interview 7

今回、演奏を録音させていただいた際の風景

僕らがそんな通用すると思わないけど、まあやってみてよ。あなた達は骨折り損のくたびれ儲けになるかもしれないけど、笑。僕はそんなことは一切わかりませんし、そんな事に関して何も言うつもりもないし。ご自由にどうぞ。おもしろいね。でもこれ本業じゃないんでしょう。

本業ではないですね。

まあそういうのは一番良いかもしれないけれどね。いや面白いからやってるというのは。食うためにと行ったら大変だもんね。

食うためというとまたいろいろ考えなきゃいけないことが増えてくると思うんですけれど。これを紹介させてもらって色々できると面白いなと思ってます。

ああ、やってみてください。知らんけど、これはすごい広範囲というか無限だね。考え出すと無限というか。

明治生まれの人たちの想いを、僕は皆に伝えたい

民謡ってその誰かのものっていう感じではないという、お話もあったと思うんですが、例えば演奏とか合奏されたりとかする時に、これは自分の作品だっていう感覚とか、そう感じたりするとは思うんですが。

そうね。そのとても難しい質問だけれども。人数多い少ないはあるけれど、あの一通り誰かうちの会員がいった時、全くオーケストラだと言うんです。オーケストラ、の集合体で踊りみたいになってる。ね、踊りだけうまくたって楽器が下手なら、楽器が下手だったらどんな踊りの名人でも踊ったら下手になってしまう。そうでしょう。僕はそのオーケストラとして、全体が総合力でどうかなという事で、そこの目配せしかできんもんね、気配りというか。

例えば今回録音されたものを使って、新しい、違う形で音楽を作らせてくださいというお願いをさせていただいてますけれども、そのことについては、その話を聞かれた時に、例えばやりたければやればという感じでしょうか?

僕はそんな通用する訳ねーだろと、今でもそう思ってるんだけれども。だから変な話、どうだろうがもう、まな板の上の鯉だから、どういう風にしてもらっても結構ですよ。

庵さんにとって、伝統音楽とか伝統とはどういう風に思っていらっしゃいますか?

どう言ったらいいかな、やっぱり一生懸命やってるうちに、それしかないでしょ。これやらなきゃでやろういってやるのは学校の先生だけで。それを一生懸命やっている人たちはそんなことを。
だから伝統守るという、そんなどういうか、大きい目標というか、何もないね。とにかくやっぱり今前にあること一生懸命やるしか。僕はそういうタイプなんですよ。なんか、そこだけムキになって。だからあんまり、やっぱり能無しはこの程度ですよ。
やっぱりやるという姿を見て、みんな頑張ってくれるから。ついてくる言ったら大げさだけれども、一緒にやってくれるから、協力してるから、それしかないと思う。口でいくら言ったってそれは蛇踊らずでね。自分が一生懸命かどうか知らんけどムキになって。それがまあ、いわゆる側からみれば伝統を守っとるということになるのかなと。僕はそう思う。
やっていることは、習ったことをみんなで一生懸命やっていると。それが人に伝わるということで、それが強いて言えば伝統、伝統と言うのは、本来は伝統ってそんな、、民謡の越中おわら節としては伝統を守っているかもしれないですね。人前で一生懸命やるということで。それが唯一、審査要項という、それに基づいての課外活動だね。

口癖みたいに、本当におわらと言うのは不思議な力を持っとると。とにかく上手下手もそうだけど、とにかく続けようと。僕がいちばん異例だと思う。だってこんなことあったら。おわらでハワイへ行ったりとかエジプトやインドに行ったりとかそんなことは誰もしてない。

CCJP Iorisan Interview 8

エジプト、ピラミッド前でおわらの様子
(提供:越中八尾おわら道場)

すごいですね。おわら道場さんの演奏であったり、審査の基準と言うのは年々変わったりはするんでしょうか?

いやほとんど変わらない。なるべく、僕はその明治生まれの人たちのことを。僕しか知らないわけでしょ。僕は変えないためにこれをやっているわけです。だから引き継ぎと言うのは、とても難しいなと思うんです、時々考えたら寝れなくなります。明治生まれの人たちの想いを、僕は皆に伝えたいと、ただそれだけです。

おわら道場の今後というかこれからは、

これが難しいところで。町も一緒なんだけど人材がいないんですよ。中には若い人もいないではないけれど、若い人は50代かな、まあ大雑把に言えば。

その方たちは庵さんから教わったものを受け継いで、、

いや僕は踊りの事はあんまり教えん、手取り足取り、見る目はあってもなかなかね。踊りの人任せ。

この昇段試験で身につけられたことを指導者になって次の方に。

そうそう、やっぱり順送りだね。難しいところは誰でも難しいし。

そうですね。今日は長いお時間ありがとうございました。

文責:森靖弘・吉田理穂(Creative Commons Japan)