二日目(6月24日)の基調講演では、CC本家の理事であるJames Boyle、米国の音楽アクティビストのJenny Toomey、サイエンス・コモンズのJohn Wilbanks、そして最近CCに対して多少批判的な論文を書いたイスラエルの法学教授Niva Elkin-Korenが講演した。
もっとも興味があったのは、Niva Elkin-Koren教授のCC批判と、それに対するLessigやBoyleといったCC理事たちの反論だった。NivaのCC批判の要点は、複数のライセンスから著作権者に自分のニーズに合ったライセンスを選択させる、という「選択の自由」を認めていることが、結果的には、ライセンスの相互互換性を失わせたり、CCライセンスの作品の利用に一定の制限をかけたり(例えば、一定のライセンスは他のライセンスと組み合わせができない、など)、そのためにCC作品を利用する人たちにライセンスのルールの理解やチェックなどの負担(取引費用)をかけることになって、CCの目指す「自由」を逆に制限することになっているのでは、ということだった。したがって、Nivaは、「CCが推奨したい自由」をもっと深く掘り下げ、その「自由」のみを反映するようにCCライセンスの種類を減らして、よりシンプルな体系を作るべきではないか、と主張した。
これに対して、LessigやBoyleは、何が著作物の利用、または文化の発展において、コアな「自由」であるのかは、CCが決めることではない、という反論をした。彼らが最初にCCを始めた頃、彼らには彼らなりの「コアな自由」に対する明確なアイディアがあった。しかし、実際にCCを開始し、色々な分野の人たちやさまざまな権利者に対してCCのライセンスを説明する過程で、社会のさまざまな人たちが求める「自由」とはなんと多様であるのか、そして自分たちが想定していた「自由」といかに社会の実態が異なるのかを痛感することが何度もあった、という。そこから、彼らは、その分野において人々が欲する「自由」はその人たちが決めるべきことだ、それに答えるための選択肢を用意するのがCCの役割だ、という考えに次第に移っていったと言う。また、「これが、コアの自由だ」とCCが決めてそれを受け入れるように、とリクエストしても、人は簡単には受け入れないだろう、という現実的な問題もある、というコメントがあった。そうすると、彼らは「自分たちのニーズとずれているCCライセンスは、採用しない」という結論を出して、そこで終わってしまう。それならば、多少、選択肢が増えて複雑になるとしても、CCライセンスを採用して、多少なりとも自由に貢献しよう、という人たちの全体数が増えるほうが良いのではないか。
この議論から、CCの理事たちのスタンスが、自由とは、その作品が発表されるコミュニティにおける「社会規範」としての自由であると捉えていることが良く分かりました。Nivaは、むしろ、CCが、世の中に普及すべき「自由」を定義して引っ張っていくべきではないか、という発想に立っていて、そういう意味ではむしろ、FSFのリチャード・ストールマン的なのかな、と思いました。