知識へのアクセスの立案

私たちはどのように、「access to knowledge(知識へのアクセス)」を立案するべきであろうか?
それは、A2K(知識へのアクセス)協議会を開催する本会議での議題だった。
その議会の間、2つの意見が私の心を打った。


そのひとつは、エール大学法学部の教授である、Prof Benklerによって語られた「異なった状況は、異なったアプローチを必要とする。」という意見である。
「知識へのアクセス」を定義する試みは、哲学的な性質を求め、抽象的な問題を求めてしまう。アクセスとは何か? 知識とは何なのか?
知識へのアクセス運動を定義しようとする試みは、ある意味で、人々に多様性を与え、彼らの努めが何なのかを理解してもらうことができるだろうし、そうした試みはそれほど難しいことではない。しかし、私はブログでそれをやろうとはしない。The FOSS(Free Open Source Software)コミュニティー、知覚障害者、教育者、学生、人権保護活動家、弁護士(少なくとも法学教授)でさえも、皆会談に参加している。
多様性は力なり。
知識へのアクセスの会談に参加した人なら、多様性が力であることを誰も疑わないだろう。経済学、人権、消費者権利、科学哲学、そうした異なった分析的な枠組みが一緒になることで、知識について、ずっと豊かな物語が紡がれ、そして、アクセスを促すための意志が生じている。
「知識へのアクセス」のすべての問題をいっぺんに解決する方法がないことは、明らかである。これは知識へのアクセス会談に参加する人々を失望させたようには見えない。むしろ、問題の多様性、規律、アプローチ、そして地域社会の状況は、お互いに学習する刺激的な好機でさえある。
知識へのアクセス条約や、世界知的財産構成の改良のような、重要な世界的イニシアチブがある。こうした「知識へのアクセス」などの課題に取り組みつつ、一般の人々の日常における、よりわかりやすい手法として、生活に根ざしたものとするように働きかけている、地域社会の範囲内でのイニシアチブもまた、重要なものとなっている。
私の関心を引きつけたもうひとつの意見は、Mokyr教授のいう、知識の「便利な知識」と「使えない知識」との分別であり、知識へのアクセスとはもっぱらこの「便利な知識」を人々に提供していくべきであるというものである。
私はその考えについていかなる議論も持たない。個人やコミュニティーにとっての知識の価値というものは、彼らが扱っている問題に対しての知識について、どれぐらい合致しているかに強く依存する。とはいえ、「使える」知識と「使えない」知識とを分別するということは、すなわち誰かが何が有用で、何が役に立たないのかを決めることになる、ということである。一体誰が、大きな影響力を振りかざすというのだろうか。こうしたカテゴリー分けを作り出す背景には、どうみつくろっても不毛にしか思えないような政治的な働きかけが渦巻いているように見えるものである。

オリジナルポスト:Framing Access to Knowledge(2006/4/21)

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