オープンソース経済やフリーカルチャーがコミュニケーションの新たな現実を作る、ネットワーク化された今日の情報社会において、美術館やアートセンターはどのような役割を果たすのだろうか? どのように、アーティストや公衆をこの現実の状況に組み込んでいけるのだろうか? そして、いわゆる「art pieces」と呼ばれるブラックボックスが開かれるときの、経験主義的な芸術分野の現実的な変化は何なのだろうか?
TokyoArtBeatというアート・デザイン・イベントカレンダーの主催者である国際的NPO、Gadagoが運営する、The DIVVY/dual projectはこれらの疑問への答を長い時間をかけて公開討論するためのの先駆けである。このプロジェクトは、東京での展覧会や公開のシンポジウムによって構成される一連のイベントで始まった。
展覧会での目玉のひとつは東京・銀座エリアで現代アートのところに並べられていた、芸術家Takumi Endoと技術者Shinya Matsuyama によるソフトウェア部品であったType-Traceである。その部品はスパイウェアと似ており、キーボードに打ち込んだすべてを記録する相互作用のアプリケーションである。Type-Traceは、ちょうど映画のようにタイムラインに沿って文書を再生する。主な特徴は、キー打ち間の時間の遅れを、出力文章のさまざまな視覚的表現に反映させるというものだ。このバージョンでは、ライターが言葉を打ち込む時間が長ければ長くなるほど、フォントサイズが大きくなる。視覚的変換を使って見る人は、それぞれの人々の書いている経験の行程を視覚的に理解できる。すべての文書のインプットはCreative Commons License下にあり、すぐにproject website上で、GPLのついたそのソフトウェアの初めの公開に含まれる文書mash-up機能のために使われる。このことは、個々の部品を最終製品と発展させることだけではなく、最終完成品よりも制作過程に注目を払う新しい美学や習慣を提案している。
The DIVVY/dual projectと同時進行している公開討論が、新宿にある1997年オープンの新しいメディアアートセンターであるNTT InterCommunication Centreで9月24日に開かれた。立案者はそのイベントのタイトルを、「Is Open Source art possible?」という、より挑戦的にし、さまざまな分野からのゲストが出席した。
まず、前者の日本の優れた現代芸術の評論誌『BT magazine』の前編集責任者であり、現在は自由契約のアートストラテジストであるKiyoshi Kusumiさんが、商標登録されないアートの誕生の動きは1960年代ニューヨークのFluxus movementの中に見つけられると説明していた。確かに、その動きに参加した多くの芸術家は自由に発想を共有し、しっかりした共同制作作品を設計した。そして、それらのほとんどの制作作品が、誰もが賞賛されたアーティストの作品を解釈できたり、順応できたりするように、公開的に売られる。この場合、これらの中の言葉「scores」は、芸術的運動の資源となると考えられている。
次に「United nations applications」構想と共に芸術の情勢と国際的論争を企てようとしている世界的に賞賛されている現代芸術家である、Noboru Tsubakiは参加者がイスラエルとパレスチナを分離する壁のデザインを提出できる「Radikal Dialogue Project」を紹介した。政治的認識の向上のための基盤構築と強い芸術的表現を可能にするために開かれた参加が重要であることを強調しながら、 なぜ彼がプロジェクトのウェブサイトにクリエイティブ・コモンズのライセンスを採用することで、公衆への創造的過程の開放を決めたのかということを説明した。またTsubakiは、絶えず現存メディアへの代替案を紹介するための不合理性と、声の拡声器としての芸術家の役割をも強調していた。
Hiroo Yamagataはハッカー文化の支持者であり、マサチューセッツ工科大学の卒業生であり、レッシグのすべての本を日本語に翻訳した人である。彼は、単純なフリーコンテンツの増加は、本当に人々の創造性を改善するのかという決定的な質問をした。彼は創造過程は抵抗要素としてのある障害が必要であり、すべての資源を利用可能にすることは結果として社会の創造性を殺すということを、かつて書いたClaude Levi-Straussを引用して説明した。しかし、他の討論者によって提案されたそれぞれのプロジェクトに対して、彼は芸術形態の性質は個々のアウトプットとしての「installation」から、共有可能な創造過程のための基盤としての「platform」へと移り変わっていることを、そのことが今日の芸術分野におけるオープンソース形式のプロジェクトの使用を正当化していることを指摘した。
Yochai Benklerの議論にしたがって、私たちは自己による明確化の文化を構築するために、ネットワークの柔軟性を私たち自身の参加によって増加させられなければならないというかもしれない。そして、どのようなイデオロギー的盲目に陥らないためにも、芸術の役割は一般的により広い文化の向かい合わせ、つまり私たちが毎日直面している社会的現実の繰り返される疑問と再定義のプラットフォームであるべきである。Gilles Deleuze がいったように、どちらも答えではなく疑問を増殖させるための努力のなかで、哲学者は概念を作り、芸術家は認識を強化する。
翻訳:大西正悟
オリジナルポスト:Updating the art world with new media(2006/10/24)