CCJPが後援したシンポジウム、「科学における情報の自由な権利化と共有化」について当日の様子をご報告いたします。
第1部ではCCJPの野口が座長をつとめさせていただき、3名の講演がおこなわれました。それぞれの話者からは、デジタルメディアやインターネット環境が普及した現代の社会において、どのような制度のもとで知識や研究の成果を共有し、科学や研究の進歩・発展につなげていくかということについて、主に知的財産権や著作権を切り口に考えが提示され、問題点の指摘がされました。
<デジタル時代への最後のステップ>
トップバッターは国立遺伝学研究所DDBJセンター長の大久保公策教授によるプレゼンテーションです。科学的なデータベース情報について、情報の私有と共有のバランスを取る必要性をご自身の経験と併せて講演されました。
まずは新しいアイディアに基づいてラボで収集されたデータをどのように公開するか、という点について述べられました。論文を書いて投稿する際には、証拠となったデータを皆が利用できるところへ置くという習慣があります。しかし、実験で収集したデータを全部そのようにしなければ論文が受理されないわけではなく、例えば大久保氏が発案した遺伝子の単離方法によって収集されたデータについては、その一部を皆が利用できるようにすればOKだったそうです。従って、ラボにはまだ他には出ていないデータが蓄積されます。約十年前、大久保氏は残ったデータの一部につき、インターネットを使ってどんな人でも閲覧できるデータベースを公開しましたが、公開情報の内容や公開対象者については自らコントロールできるような状態にしました。
また、このデータを売ることが可能であるか否かについては、ご自身の経験から、明らかに常識に反すると考えられると述べています。しかし法律的には明示的な制約はないため、科学データを生成している者は常識を踏み越えてしまう可能性があることを指摘されました。
次に、研究対象となりえる莫大な素材候補の絞り込みに関して、従来からの、あるいは新たな知識をデータにどのように適用するか、という点です。これについて、大久保氏は分野ごとの教科書を用いるというアイディアを思いつきました。教科書はある知識領域を重複なく上手くカバーしていることから、教科書の索引と目次をスキャニングし、教科書に従いデータを並べていくことで、知識をデータに機械的に適用することが可能になりました。しかしこのアイディアを公開すると、教科書の索引等にも著作権は発生するため、著作権侵害が問題となります。従って出版社の許諾が必要ですが、このアイディアに好意的な評価を下す出版社は見つからなかったそうです。また、学会が発行する用語集や政府のサーベイ等は、できるだけたくさんその内容を広める目的があるにも関わらず著作権を非常に重視しており、これらの知識を活用することが困難となります。
このことから、現行の著作権は本の新しい使い道の開発や公開を遅くしているように感じた、と大久保氏は述べています。
以上のような自らの経験を踏まえつつ、日本とアメリカにおける科学データの取り扱いに対するポリシーの違いが指摘されました。すなわち、アメリカでは科学データの共有を進めるようなポリシーが作られ、情報の私有と共有のバランスをはかる政策が熱心に議論されているのに対し、日本では本格的にデータ中心の科学が始まる際、同時に大学の法人化が進められたことが一因となり、データや知識から得られる知的財産を保有すべきであるという議論が中心であり、アメリカは十年先を進んでいるような状況だということです。
従って、日本の事情を踏まえつつ、アメリカにおける議論を参考にして、知財や法律を侵すことなくデジタル科学が進歩するような制度のあり方を考えていく必要がある、と主張されました。
<デジタル時代の著作権と、科学情報を共有することのインパクト>
次に登壇したローレンス・レッシグ氏は、「デジタル時代の著作権と科学データの共有に対するインパクト」という題で講演をしました。
レッシグ氏はまず、3つの事実を提示しました。
(1)デジタル時代の著作権については、「部屋の中に象がいる」(英語の慣用表現で、象のように大きくて明白な事実が気付かれず、または無視されて存在していることの例え)。それは、技術の変化によって、法律自体は全く変わっていないのに、著作権の守備範囲が著しく拡大したという事実を指す。昔は、著作権はごく一部の業界を取り締まる法律だったが、今や万人が著作権に関係するようになった。紙の本を読むことは著作権の規制範囲外だが、ネットでウェブページを読むことは、データの複製を伴い、著作権法の範囲内になってしまう。
(2)次に、「パラダイム事例」について。すべての法律には、その立法の前提となっている「パラダイム事例」(その法律の枠組みを設定している事例)が存在している。ところが、後に「パラダイム事例」とは異なる事例が出てきた場合に、法律はうまく機能しない場合がある。著作権法の「パラダイム事例」は、営利活動のために創作活動をする、という事例であり、利益が得られなければ創作は行われない、というのが大前提になっている。しかしながら、明らかに、創作のすべてが営利活動目的で行われるわけではなく、創作活動が好きだからという理由で創作する人たちが多く存在する、ということが前提から抜けている。そして、経済的利益のために創作する人たちの生態系(ecology)と、創作が好きだから創作する人たちの生態系は異なる。前者は独占と排除の生態系だが、後者は共有し、見せ合い、批判し、コメントし、創作に参加したりする生態系であり、排除の生態系ではない。種類の異なる創作性には、異なる生態系が存在しており、現在の著作権法のモデルは、ひとつの生態系モデルにのみふさわしいが、他のモデルにはそぐわない。
(3)法律というものに対する人々の態度について考えてみると、法律家と非法律家との法律に対するアプローチは驚くほど異なっている。非法律家は、法律を大変尊重(respect)している一方で、法律の教授は法律に対して同じような尊敬の念は抱いておらず、むしろ常に疑っている。その法律が正しく機能しているかを常に疑い、問題があれば法律の改正を求めるのが法律家なのだ。特に、著作権法については、立法者が立法当時には考えもしなかった変化(適用範囲の急激な拡大)が技術の変化によって生じているのだから、それが正しい法律なのかを疑い続けることが重要。
これらの事実を土台にして、レッシグ氏は議論を展開します。
科学においては、知の独占よりは知の共有に重きを置く生態系があり、科学のコミュニティにおいては、たとえば商業音楽の世界におけるインセンティブとは異なって、独占とは異なる生態系が長く存在してきた。財産権を巡るコースの定理で有名なノーベル経済学者のロナルド・コースは、「人々が資源を利用する能力に介入するすべての財産権については、かかる介入から得られる利益の方がそれによって生じる害よりも大きくなければならない」と述べている。ところが、科学の分野では、著作権法は害の方が利益よりも大きいにも関わらず、過去20年間、疑いの目(著作権を破壊しようとか著作権に抵抗しようとかいうことではなく)が向けられることはあまりに少なかった、とレッシグ氏は強調し、科学者は自分たちの研究環境や研究の生態系の中で、現在の財産権は理にかなっているのか?と問う権利があると考えるべきだ、と続けます。
科学の世界の「パラダイム事例」は著作権が前提としているそれとは異なるのだから、自分たちの属する世界の情報の生態系における財産権の制度がどうあるべきか、疑い、もっと良くしようと考える権利がある、と述べながら、必要なら私がそのような権利があることの証明書をサイン入りで送りましょう、とサイン入り証明書のスライドを披露し、会場の笑いを誘いました。
次に、著作権が前提としているような商業的なスキームは科学にも有益か?ということに対して、科学は、複雑な法律の介入なく、過去の業績の上に自分の業績を積んでいくことができる分野であるべきだという考えを示します。たとえば、お金持ちの米国の大学ならば、財産権の介入する世界でもなんとかやっていけるかもしれないが、資力のない他の人たちはそうはいかない、ほんの少しのお金を払わなければいけないだけでも情報の入手などが不可能になることは沢山ある。さらに、大学ではなく、一般の人たちはどうだろう?
ここで、レッシグ氏はご自分の体験を披露されました。生後3週間のレッシグ氏の子供は、生まれて3日目に、ひどい黄疸が見られるということで、深夜2時に病院の救急室へ行くことになりました。病院へ行く直前に、レッシグ氏は黄疸に関する情報を探し、インターネットで米国家庭医学会のホームページにある論文を見つけ、プリントアウトして、病院の待ち時間に読み始めましたが、一番重要な部分に差し掛かった時、論文は突然、「権利者は以下の部分の掲載を許可しておりません。どうぞ、印刷された論文をご覧ください」と終わってしまったのです。生まれたばかりの子供を腕に抱いて、もしかしたらこの黄疸によって一生脳にダメージが残ってしまうかもしれないという恐怖に駆られ、子供の状況がどれほど深刻なのかどうか知りたいと切望している一市民に、一番肝心なところは教えないなんて、どうしてこんなことを我々はしているのか?知の普及のためにインターネット上に掲載している論文なのに、こんなところで財産権を主張することに一体どんな利益があるのか?と強く感じたのでした。
レッシグ氏は、かつては論文は紙媒体で印刷する以外に人に届ける手段がなく、したがって、「必要悪」としての排除権があったが、前提としている技術が変わった時、この必要悪がまだ必要なのか?を問う必要がある、と述べます。なぜ、かつて自由だった論文へのアクセスが、インターネットによってどこにいても可能になったのに、その可能性を制限するのか。科学者は、これらの問題を問う権利があり、また道義的な責任もある。科学者は、知識を広くあまねく届ける権利と義務がある。知識を「生産」するのではなく、知識を広めること。商業的生産とは区別すること。
そして、「許諾の文化」について話が続きます。図書館に行けばいつでも無料で本を読める一方で、ドキュメンタリー映画の世界では、利用に一つ一つ許諾を求め、5年たったらその許諾も終了する、というようなビジネスモデルが長く続けられ、その結果、古いドキュメンタリー映画のフィルムが腐ってしまう前にデジタル形式で保存したいと思っても、その保存すら許諾がなければできないず、再利用しようものなら再許諾をとるための膨大な時間と費用がかかる。このような「許諾の文化」が文化へのアクセスや保存、再利用を難しくしている。いつでもアクセスが可能な本と、アクセス・保存・再利用が極めて困難な映画の違いは、弁護士の戦略の違いといえる。映画産業の弁護士が、5年毎に再度許諾を求めるという戦略を決めた時、彼らは将来の技術や展開を十分予測して行ったわけではない。このように、人為的に作られた「法律の錠前」によって映画の世界は縛られている。そして今、デジタル技術の浸透とともに、科学や本の世界にも、同じ法律の錠前が導入されてしまった。
続いて、2002年に自らはじめたクリエイティブ・コモンズについて触れました。CCは、共有やリミックスの自由を与え、その代わりに希望する人には非営利・継承といった条件を課すことを可能とするライセンス・ツールを提供する運動であり、今やホワイトハウスやウィキペディア、ミュージシャンのNine Inch NailsなどがCCライセンスを利用し、1億以上の写真がFlickrでCCライセンスのもとで公開されている、と紹介し、そこから派生したサイエンス・コモンズという取り組みについても、科学の世界の情報をより低い取引費用で共有できるようにし、科学の成果を共有できる仕組みを作ることが狙いの取り組みであると紹介。そこでは100以上の科学雑誌がCCを使って論文のオープン・アクセスを実現しており、データの共有については、著作権・データベース権などの権利をすべて放棄するCC0(CCゼロ)を用いて、不要な法的制限を取り払った形でデータを共有する仕組みが推奨されているとのこと。また、マテリアルについては、CC材料移転契約(CC Material Transfer Agreement)をドラフトして推奨しており、科学成果の共有のルールを単純にすることがその目的。これらのツールを利用している具体例として、たとえば、パーソナル・ゲノム・プロジェクト(Personal Genome Project)を挙げていました。
CCは、知的財産権に反対しているのでない、とレッシグ氏は念を押します。反対しているのは、知的財産権が誤って使われている分野に対してであり、必要な時に知的財産権を用いることは重要。しかし、害を及ぼすような知的財産権については、それを上手に回避する方法を見つけなければならない、とりわけ技術の変化によって意図しない著作権の拡大が生じた分野については重要な役割を果たすことが期待できる、と。
講演の締めくくりはフェアユースについて。フェア・ユースもこの文脈では(特にその柔軟性が)重要であり、最も効果を発揮するのは、著作権がその立法時には意図していなかったような未知の技術や使われ方に上手に対応できない場面。もしも事前に許諾を求めるならば実現が不可能になるが、社会にとって制限するよりも利用を認めた方が利益の大きい使われ方を実現することができる事例に最も効果を発揮するのがフェアユースであり、皆が気付いていない技術のインパクトが大きく、そして部屋に象がいる(著作権法に大きな問題が発生しているのにそれを気づかない)現代において、フェア・ユースは本当に必要な制度だと主張されました。
最後に、あるひとつの分野のビジネスモデルに基づいて作られた法律が、他のすべての分野にとって最善なものとはいえないということを理解して、科学者たちが法律家に対して、法律がうまくいかない点を指摘する声をあげることへの期待を述べ、講演を終えました。
<デジタル時代の著作権とイノベーション>
三番目のスピーカーは中山信弘教授でした。中山氏は、我が国の著作権法の現状について述べられました。
中山氏は、現行著作権法は、すべての著作物について差止めを原則とする物権的権利としての著作権制度を採用しているため、流通に対する阻害性が強い等の弊害があり、このような著作権のあり方には再検討の余地があること、それだけでなく、現行著作権法は、一部の能力のある者のみ(プロ作家)が関係することを前提としているが、デジタル時代(インターネットの時代)になって、万人が創作者、情報発信者、情報受領者になり得るようになり、その前提が崩れたこと、また、著作権法上の法律関係は相対で生じないことも多く、取引をみても一つ一つが小さい規模であることも多いことからすれば、交渉等のコストを効率化することのできる法制が必要であること、近時問題となっているフェアユースについては技巧的な解釈では解決しにくい新しいネットビジネスを合法化していくことを期待したいこと、といった内容を話されました。
とりわけ興味深かったのは、現行著作権法のもとでの強い考え方だと思っていた、人は対価を請求できることを期待して創作活動をするのだ、という考え方について。中山氏は、必ずしもそうとはいえず、さらに学術論文においては、そのようなことが妥当ではないこともあるのではないか、ということを述べられ、科学の発展にとって、現行著作権法の再検討を要するとされました。
以上のように、万人のための著作権法になって、時代に適合する法解釈を可能にするような立法が強く求められているということを感じさせる講演でした。
第2部の報告記事はこちら