21世紀:「リード・オンリー」文化はもう時代遅れ

「第4回OSの魔法使い会議」第1回第2回レポートをそれぞれ参照のこと)[訳注1]の2日目の終わり、ラリー・レッシグ教授は「リード/ライト」社会についての基調講演を行った。
レッシグはJohn Philip Sousaの物語から話をはじめた。Sousaは20世紀初頭のアメリカの作曲家で、次のようなことを信じていた人だ。初期のボイスレコーダ機器の発達によって、「芸術の成熟はとどまり」、「歌声の絆が失われる」ことになるだろう、と。


レッシグは去年、CCポーランドのオープニングイベントにて同じ例を使ったそうだ。ポーランドでは、文化をつくる古い方式に金脈を持つ人たちが、いかに新しいやり方の発展をじゃまするかということを示すために用いられた。たとえば、P2P技術について今日いわれているようなことだ。今回レッシグは、別の問題を取り上げた-実際のところ、Sousaが不平をこぼした「機器」は中心を持たない、まさに草の根の文化活動のあり方を台無しにしたということだった。「若者が集って、当時の流行歌や懐メロをうたう」情景は、終わりにさしかかっていた。

レッシグの議論は次のようなものだ。20世紀の「リード・オンリー」文化にあって、ただ消費するだけでなく文化というものを生みだすことの可能性は、大きく失われた。それが21世紀になって、「リード/ライト」文化は蘇りつつあるというのだ。インターネットにおいて現在進行中の、これら2つの文化が争う様子をわれわれは見守っている。第一のものはきわめて生産的で、いついかなる時にも再利用を認めようというものだ。一方、こうした再利用に対し、徹底的にコントロールをかけようとする向きもまま見られる。これに抗うのが、再-創造の文化に他ならないというわけだ。いくつかのビデオのマッシュアップを取り上げながら、レッシグはこの文化について説明している。ぼくのお気に入りの例は、Jonathan Caouette、生きているあいだ中いつもビデオカメラで録りつづけた人についてのものだ。30歳のとき、Caouetteは『ちぇっ』という映画をつくりあげた。制作費は218ドル、カンヌ映画祭で大成功を収めることになる。
文化の再利用に関するリード・オンリー、そしてリード/ライトというやり方は、2つの別の文化に由来するものだ。前者はほとんど受身で、かっちりした著作権体系によって支えられている。後者がリード・オンリー文化を小さく見せているのは、生み出されるコンテンツの大きさとか、社会的・教育的あるいは政治的な意味によるものじゃない。リード/ライト文化が、大いに経済的な可能性を持つものだからだ。レッシグによれば、いま起こっている悲劇は、海賊行為をやっつけるために用いられる武器が、技術のインフラを根絶やしにすることで、リード/ライト文化そのものを損なっていることだ。一月前にWikimaniaにて行ったとおり、リード/ライト文化を支持するよう、第4回OSの魔法使い会議への参加者たちに彼は訴えかけた。リード/ライト文化はDRM技術から守られなければならない。フリーなライセンス体系と同じく、フリーなコードやプロトコルの発達によって支えられなければならない。そして、今やクリエータになった消費者たちによって実践されなければならない。
現代の文化について考えるときに有意義なたとえ話のあらましを述べる一方で、レッシグの講演は、リード/ライト文化への参加についての話を残していた。現在のリード/ライト文化の多くはニッチな領野に居を構えるものであり、うつろう小さな水泡のようなコモンズの領域と共に、圧倒的なまでのリード・オンリー文化によってフリーな空間の細切れへと圧搾されてしまっている。文化の豊穣さについての思想に共鳴するのは実際のところごくわずかの人々であり、こうした作品はインターネット上で容易にコピーされ伝播されていくはずが、ほとんど幻覚を生みだすかのような事態となっている。また、多くの人々は、技術が可能にするものを用いることに無頓着だ。Yochai Benklerは、一日前にこのことについて聞かれた際には楽観的であった。文化活動への参加について、世代間に考え方の違いがあることを示した研究に彼は言及した。再びボールは球場の中にあるようだ。文化の動向を見守るために、もう10年か20年、待たなければならない。
レッシグとBenjamin Mako Hillは、この日の早くにワークショップで行われた、ライセンスの問題についての議論に参加した。Benjamin Mako Hillは、『自由のスタンダードに向かって クリエイティブ・コモンズとフリー・ソフトウェア運動』と題された本の著者だ。この中で彼がCCを批判するのは、あるライセンスがフリーかそうでないかを明確に決めることをユーザーに認める、コアの自由を否定しない点についてだ。彼は書いている。「しかし、確固とした倫理的立場を取らず、砂上にいかなる線をも引こうとしないがために、CCは機を逸してしまっている」
レッシグにとってもHillにとっても、この問題について公の場で議論するのは、第4回OSの魔法使い会議の当ワークショップがはじめてであった。レッシグは、この議論が極端な空想家と現実主義者の争いではないことを明言し、話をはじめた。Hillのような批判者たちがコンテンツの自由をひとつの基準で実現することを重要視するのに対し、レッシグは複数の基準を共存させる考えを採っている。二人の違いは、むしろこの事実に起因するものだ。レッシグが信じるように、クリエイティブな共同体は、自らのクリエイティブな自由を守るために、それぞれ独自の基準を作り上げなければならないのだろうか。リチャード・ストールマンのようなプログラマーたちが、FLOSSの共同体[訳注2]を成し遂げたように。十中八九、複数でそれぞれ異なる自由の基準ということになるだろう。ラリーはいっている。「そうでなければ、コアとなる自由の基準の起草者は、尊大な態度を取るようになるだろう。何が正しいのか、他人に教え諭すようになるだろう」。Jarosław Lipszycが告げたとおり、払わなければならない対価によって、文化のコンテンツのため池は決壊してしまいかねないのである。
これら2つの立場には折衷点など見出しえない。そう考えて、ぼくは左派の立場を採ることにした。レッシグのように考える人たち(ぼくは自分がそうであることを自認している)にしてみれば、コアとなる自由を決定する仕事は、たくさんのクリエイティブな共同体がそれぞれ行わなければならないことだ。Hillにとって自由の決定はきちんとした価値観に基づくものであって、代案を受け容れることを困難にするものだ。幸運なことにフリー・カルチャー・ムーブメントには、どちらの強い価値観も、またより包括的で開かれた価値観についても、十分に支援するだけの余裕がある。とてもせっかちになること、現在進行中のプロセスを眺めるのではなく、確固たる結果として見つめるのが必要だということが、はじまって間もない活動のためにさしあたって重要性を帯びる。このワークショップに参加したことで、またしてもこんなことを考えてしまった。悲観的な人は、われわれのライセンスの体系を「十分にはフリーじゃない」と考えている。でもぼくは次のように思う。どれだけ限定的なものであれ、CCライセンスを利用することは、すべからく一種のシグナル、しっかりと立てられた小さな旗じるしだ。この旗はうたっている、いま手にしている作品は、文化の領域のうち、特にコモンズの部分に根ざしたものなのだと。

訳注1:ベルリンで行われている国際会議のこと。フリー・ソフトウェアに関連するさまざまなトピックを、きわめて学際的に取り上げている。もちろん、この名称は「オズの魔法使い(Wizard of Oz)」に引っかけたものである。
訳注2:フリー(Free)で、リーブル(Libre)な、オープンソース(OpenSource)のソフトウェア(Software)文化を促進しようとする、FLOSSワールドプロジェクトのことを指すものと思われる。アメリカ版ウィキペディアの記事に、詳しくまとまっている。

翻訳:eboshilog
オリジナルポスト:21st century: “Read Only” culture is so passé(2006/9/21)

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