私は如何にして心配するのを止めてクリエイティブ・コモンズを愛するようになったか

報道写真家のAndrew Heavens氏の「私は如何にして心配するのを止めてクリエイティブ・コモンズを愛するようになったか(How I learned to stop worrying and love the Creative Commons)」という記事より。

心配するのを止めて、クリエイティブ・コモンズが作品への束縛を解くという効果を愛するようになることを身につけて得られるたくさんの恩恵について、時間と距離はよく考えさせてくれました。

個人的なことでは、私のもう使わない写真がCCライセンスを付けられることでインターネットを泳ぎまわっているという事実によって、多くの良いことが起こっています。人々は私の写真を教科書、カレンダー、エチオピア料理レストランのメニュー、珍しいアムハラ語のグリーティングカードなどに使えないかどうか確認して書き込んでいます。(珍しいアムハラ語のグリーティングカードの文章に写真をそえる機会なんてそれほどあるものでしょうか?)これらの関係の一部は、さらなる有償の仕事につながっています。一部は、もしニューヨークで通り過ぎるようなことがあればひょっこり入って行きたくなるようなあるエチオピア料理のレストランで、ただで食べさせてもらうことができました。その他は、金銭的なことは何もありません。

また、個人的な範囲にとどまらず、たくさんの良いことが起こっています。先に述べたように、報道写真についてもっともいらいらすることのひとつに、写真の寿命が短いということがあります。記者は、自らが重要だ、ニュースにする価値がある事件だと思った記録を自ら危険な状態に置きます。しかし、結果として新聞の紙面、テレビの画面、Yahoo!のニュースなどを飾る写真などでも、一日かそのくらいの寿命しかありません。それから消えてしまいます。

クリエイティブ・コモンズのもっともすばらしいところは、自分の作品の寿命を延ばせることです。ニュースイベントが終わった後でも、写真はまだそこにあり、誰かに見出されて新たな意味を与えられたり異なった場所で使用されることを待っています。

Andrew氏のFlickrでの写真も見てみましょう。

これに似た見識ある言葉をEthan Zuckerman氏氏が書いています。

メディアを作るとき、創作物ができる限り長く生きていけるということは大きな強みになります。メディアで稼ごうとするときには、そのインセンティブもまた得ることができます――不足している貴重なものは、放送電波へのアクセスではなく、受け手の注意だということを一度理解すれば、作品の寿命の始まりや終わりの方で誰かの注意を引きつけることは重大ではなくなります。重大なのは、誰かがあなたの作品から見つけ出すことができる異なった文脈の数が多いことです。ニュース速報として?政治活動家が取り上げる材料として?長い寿命を持つデジタル作品は、両方にもそれ以上にもなることができます。ドキュメンタリーがそうなることができれば、これもすばらしいことではないでしょうか?

オリジナルポスト:How I learned to stop worrying and love Creative Commons by Mike Linksvayer on 2006-11-27 10:31 PM.

翻訳者:山田雅之